あきら君、はじめて釣れたライヒー
おもいっきり晴れた、典型的な夏の日。腰の高さまで伸びた草のあいだを歩きながら、岸際に生えた藻にフロッグを投げる。
少し風は吹いていたけれど、キャップと偏光メガネで密閉された顔には汗が流れ落ちていく。少し前進するたび、茂みのバッタが飛んで逃げる。きれいな捕食音で釣れたライヒーとともに、今日はそんな記憶になるだろう。
正午に到着したあきら君はライヒーを釣りあげ、夜の高速バスで東京に帰っていった。
「釣れなくてもおもしろい」というのはわからない話ではないけれど、各地で竿を出す釣り師にはおもしろくない話だ。遠くに出かければ遠くに出かけるほど、そんな思いは強くなる。
釣りは旅行と少しだけちがって、旅先に到着するのが目的ではない。旅先で竿を出して、魚を釣らなければいけない。魚を釣ることで旅が完成するのだ。それがどれだけ難しいか、やったものしかわからない。
彼のように海外に飛び出す釣り師もいれば、日本中を旅している釣り師もいるだろう。彼らは景色を眺めながら、「ここは◯◯に似ている」だとか、魚を触りながら「これは△△と違う」と一期一会を楽しんでいる。
あんな記憶、こんな記憶を補完しながら、釣りをつづける。いつも伝わるのは「□□パターンで何匹」かもしれないけど、本当はそんな記憶を大事にしたいと思っている。